昭和42年03月14日 朝の御理解



 畑で肥をかけておろうが、道を歩いておろうが、神の中を分けて通りおるようなものじゃ。これは、教祖の神様の、天地の親神様を大任される心をもって、又は、体をもって、神様の働きを直に実感しておられる、私は、お言葉だと思いますね。神の中を分けて通りおるようなものじゃと。私も、いつか頂いたことがあるんですけれども。ちょうどこう、笹薮のような中をですね、朝露がいっぱい降りておるその笹薮の中を、分けて通っておる。実際にこう、体が朝露で濡れる。
 またこう押し分けて通る度に、さわさわさわさわと、こう音がする。これが神のなかを分けて通る実感じゃと私は思う。お恵みの露に濡れながら、しかも、その笹薮を押し分けれる、ざわさわとこういうその音。それを聞きながら信心生活とは、そういうようなものだ。畑で肥をかけておろうが、どんな汚いことをしておろうが、平気で道を、例えば、歩いておろうが、神のなかを分けて。
 御免ください、御免ください、と言うて分けて通りおるような、そういう実感がですね、私は、本当に信心を頂いていく者の実感でなからなければならないと思うのです。どうでしょうか、皆さん。素晴らしいですね。その教祖の神様の表現が。朝露にいっぱい濡れておる、その笹薮の中を、身が濡れるのである。しかも、押し分け押し分け進んで行くところに、さわさわさわさわとこう音がするのである。
 神の中を分けて通り居る様なものじゃとは、そう言う様なもの。理屈の上では、それは、なるほど空気そのものが、神様のお恵みの物であるのですから、ここに神の中を分けて通りおるようなものだけど、それが実感としてです、ざわざわと音を聞くような、また実際に着物が身が濡れるような、そういう実感をです。感じる所に真に有難いという心が、おのずと生まれてくると思うです。有難いことだと言うことなんです。
 そういう様な、おかげを頂かして頂くためには、どういうようなあり方、信心にならせて頂いたら、そういうおかげを受けられるかと。椛目ではそのことを非常に大事に致しますですね。それほど大事に致しますから、神様が、そういうふうにお働き下さるんですね。いや、一体に神様は、お働き下さっておるんでしょうけれども。それを椛目の人達は、特に実感して感じておるように思うですね。その実感が、有難い。
 神様の御守護を受けておるしるしだなとこう思うのです。それを例えば、小説とかなんか読んだり、浪花節を聞いたり致しておりますと、そう言う様な事を非常に強調致しますですね。自然とのつながりを知るやら知らずや、知らんけども。例えば、浪花節なんか、何という浪花節だったでしょうかね。何か淋しいその、浪花節の最後の文旬のところに、なかなかあれはその、泣くのが素晴らしいですもんね、言葉が。
 同時に、最後を飾る言葉が、また詩的なんですよ。秋の夜空に雁が鳴く、なんて。最後のところに、そんなのが、何かそんなのがありましたよ。淋しい、淋しいその情景にです。淋しい、その人が淋しいと。涙が出るように悲しいと言う時にです。秋の夜空に雁が鳴いて行きよる。よけい一段とその、悲しさなら、悲しさというものを、強調しておる訳なんです。信心さして頂くものには、それがあるのです。
 よくあのお徳の高い人達が、亡くなられたり致しますとですね。天地が共に悲しんで下さると。お湿りなんかがあると、天地が悲しんでおって下さるんだという風に、表現致しますでしょうが。またなんかお祝がめでたいと言った様な時に、お天気が良いと天地がまるで、祝福して下さるようなと言った様な言葉を使うでしょうが。ところがそれが本当にね、そういう風に頂けれるのが、私はお道の信心だと思うんですよ。
 だから、そういうものを、刻々、言うならば、頂いていけれる生活なんです。そこを教祖は、神の中を分けて通りおるようなものじゃと仰っております。私は、朝露に濡れた竹藪の中を、押し分け押し分け通って行くようなものだと。直(じか)に濡れるのが感じられるんだもの。直にこの耳で、さわさわとその音を聞くことが出来るんだもの。咋日、熊谷さんが、ここにお供えなさるための、御膳のその数を、二階の、それこそ、大変、旧家ですから、古い物が沢山あるんですよ。
 それを、選り分けられる為に、捜しよんなさった。ところが、こんな大きな、今で言うなら、昔、あんな、ああいうものを額皿なんか使った筈はございませんから、実際にお料理に使ったんでしょう。もう塗り物の、それは、実に見事な、大きな、額皿にするなら、最高の、いわば本当の美術品なんですよね。実に見事な、それを二枚持って見えておられます。一つは、松の図柄に鷹が止まっております。
 一つのには、もうそれは見事なあの藻ですね。緑色の素晴らしい昔の絵の具の素晴らしいのには驚きますぐらいですね。藻があしらってあるところに、大きな鯉が一匹、泳いでおる図柄なんです。これはどちらか一枚取って頂いて私も孫の家に嫁入って行って、初めて見た、直してあるのを探し出された訳ですね、何十年ぶりに。だからここに一枚家に一枚頂いて、泥を取って頂きたいと言うて持ってみえて。
 皆さんがあの、合楽にお出でられますと、三十畳の床に、私が、今、掛けております、お供えに頂いとります、大きな軸がございます。あれが、松を背景に孔雀が書いてございます。あれは、私は、椛目の、言うなら、御神戒。いわば、椛目の信心をさせて頂く者の、一つの戒めとして、あれは見なきゃいけない。松そのものはです、私が、何時も言うように、松の信心と。
 桂松平先生とか、石橋松次郎先生とか、甘木の安武松太郎先生と、言ったような風にです。そういう、九州の三松と言われるほどに、当時羽振りをきかせられた、お徳を受けられた先生方の、そういう信心の流れを受けておるんです私共は。ですから椛目では、非常にその、松を大事に致します。特に九州の祖と言われる、桂松平大先生のひとつの表現と、私共は思うております。松のお知らせは。
 その桂松平先生なら桂松平先生の信心がバックである。これは椛目にとって、一番なによりの強みなんです。ところが椛目には、いわゆる、鷹という事は、あれは我のお知らせ。鷲というのは、鷲やら鷹やらというのは、こう我武者羅に物を掴む。いわゆる、わしがと、わしがと、俺がと、俺がしよるという様なその、我があっては、真の信心が分からん。そういう物があるためにです。
 やはりわしがという我を取り除かせて頂く。さあ我がありはせんかその額皿なら額皿を見るたんべんに、思わせて頂く様なですおかげを頂くために、横にあ、あの鯉のお知らせはお徳と仰います。お徳がこうこその泳いでおる鯉が泳いでおる。こういうお徳を頂くためにどうでも私共は我を取らなければならない。我を取せてさえ頂けば、私共のバックには天地が言わば松がバックであるということ。こんなに心強い事はない。
 孔雀でもそうである。顔が何とは無しに、華やかなものある。ちょっと華やか過ぎるようなものを感じる、生活の中に。誰でも華やかなおかげは願っているのですけれども、中身のないのに、華やかにばっかりしよったら、やり損なう。いわゆる、反対です。とこう申します。あんまり張ってから張り倒すと言うこと。顔の泥も、そういう私に、大体はあるから、皆さんの上にも、それが感じられるのです。
 けども皆がそんな孔雀のような、それこそ、桜の花が、一遍に咲いたような、華やかなおかげを頂きたいのですよね。けれども華やかな生活に、華やかなおかげを、頂くという事ではいけん。そのおかげを頂くために私が、何時も申しますように、梅の信心が、柳の信心が出来て、初めて、桜のおかげを、頂くという桜のおかげで、なかならければならないと、こう、私がいうのが、そのことなんです。
 と言う様にです、その軸と言い、その額皿と言いです。いつも自然がです、神様が、私の耳元に、私共にです、ささやきかけて、おられるような気がするじゃないですか。今度の、奉祭式には、お提灯が要ると言うので、なかなか、よい提灯がないのです。台が古いのでもあれば、張り替えるのは、すぐ出来るらしいけども。なかなか初めから作るという事は出来ないという訳、間に合わない訳なんです。
 それを聞かれて、やっぱ、家を探しておられたら、提灯が出て来たと言うので、提灯を三張り持って来ておられます、熊谷さんが。その提灯を見てから、もう私は、このまま使うても良いなと思うたんです。それは、ごらんなさい。「徳の光」と書いてある、大きく。椛目に徳がある訳じゃないけれども、もちろん、私共の、目指しなんです。いわば、そんならば、桂松平先生のお徳のおかげで。
 こういうふうな形になされてにいきよるという事にもなるでしょう。徳の光の光を先頭にです。私共は、お神を、お迎え申し上げ、奉祭申し上げる訳なんです。丸っきり、本当に、私共がですね、演出したようにあるでしょうが。けれども、私共が、徳の光と書いてある提灯が、良いと思う。松に鷲の絵が書いてあるとが、良いと思う。いや鯉の絵が良かばいと言うて、良い訳だけではない。
 それをわざわざその為に持って来た訳じゃないでしょうが。これはいわば自然がいつも私共にささやきかけて下さったり。大きな声で叱責下さったりお叱り下さっておったり、又は私共の為、御神戒をです戒めのお言葉を下さっておったりしておる事なんです。やぁこれは素晴らしい華やかな絵だ。はぁこの孔雀の素晴らしさと言うとるだけじゃなくて、この孔雀の華やかな様な華やか過ぎる様なものがです私共にある。
 ここのところを、例えば戒めていかなけれぱならない。今度も奉祭式のご直会のことについて、婦人部の方達が、昨日あちらで会議があった時にもです、どうしても分からんのは、華やかに華やかにその、献立でもなってくる訳なんです。けれどもそういう御神戒を頂いておりますから、今度はもう思い切って始末倹約と言う意味じゃないけれども、質素に行こうじゃないかと言ったような話合いが、咋日の夜でもです。
 そういう一つの御神戒を頂いておるから、その話しが、そういう風にスムーズに行くのです。そして目指すところは、神様が下さろうとしておるのは、お徳のおかげであるということ。という様にですね、まぁそんなことを申しますと、きりが無いですね。咋日も、私、熊本の熊谷さん、あちらに見えておりましたから、こちらでいろいろと聞かせて貰うて、こちらに一緒に帰って参りました。
 先日から、お父さんが亡くなられたんですけれども。そのお礼のお届けに出て見えておられるのですが。本当に私がずっと私と共にあることを実感致しますと言われる。そうですもんね。霊様があなたに付いて回っとられますもんね。そう言いながらです。お食事を終わってから、例えばほらここにお膳部がしてあるでしょうが。私とあなたと二人でご飯を頂きよるのに、お謄部だけは、三人分してあるでしょうが。
 これは、ちゃっと天地の親神様が、あなたに付いとられる、霊様に対するお膳部を、神様が、あちらへ、こしらえてあって下さるのですよと言うて、あなたに話したことでしたけれども。そうでしたんですよ。二人しか頂かんのに、お膳部が三人作ってあるという事は。目には見えないけれどもです、天地の親神様は、そういう働きを下さるのです。で私は、これが、熊谷さんのお父さんのお膳部だ。
 だから、ここに座られるんだという、上席のところに席を取ってあるんです。そんなこともですね。例えぱ、馬鹿んごとある話と言えば、それだけなんです。けれども、教祖の神様が、その「神様の中をわけて通りおるようなものじゃ」と言うのは、そういう、そのことを実感することだと思うんです。霊様が守り通し、守って下さるんだなぁと。天地の親神様が守る、見ておって下さるんだなあと。
 その天地の親神様のいうなら、ささやきを又は大きな声を。ある場合には可愛くてたまらんと言ったようなお声をかけで下さるかもしれん。ある場合にはお叱り下さるような、大きなお声を下さるかもしれん。それをそういう様な姿形の中に、自然の中に現して下さる。秋の夜空に雁が鳴くじゃないけれども。淋しい時には淋しい表現を見せて下さるし、おめでたい時のはおめでたい表現を、神様が自然の中に下さるのだ。
 だから神様も神の中を分けて通りおる様なものと言う事を実感する事が出来る。だからこそ有難いのであり、相すまんのでありと言うようなことが、実感として相すまん実感として有難いと、お礼が申し上げられるのじゃないでしょうか。だからこそ私は有難いという信心生活が出来るのではないだろうかと。だからこそ実意丁寧神信心というものをなしておかなければならないということが感じられるですね。
 天地が祝福しござるとが分かる感じ。天地が共に、淋しい思いをして下さっておるような、実感というようなものが、私共の心に伝わってくる、通うてくる。成程、朝露に濡れる実感。笹薮の中を分けるあの、さわさわと言う音を、絶えず聞き続けていくという生活を、私は本当の信心生活。有難いことじゃなあ、勿体ないことじゃなあというものをです、実感していくと生活を、私は、本当の信心生活だと思うのです。
 為に、私が、いつも申しますように、自然の働き、成り行きそのものを、いよいよ本気で大事にしていこうとする姿勢がなかならければ、それを見ることも聞くことも出来んのです。迂闇にしておったら、ほうこりゃ、松に鷹の絵どんがついとるというだけのことでしょうもん。これには、鯉の絵どんがついとると言うだけでしょう。ほうこりゃ、徳の光ち書いちゃるが。
 何の意味やらわからんでしょもん。それがその心を寄せておるから、神様はありがたいな。徳の光を先頭に神様は椛目に、いや、合楽に向こうて下さるんだ。と言ったようなことを感じることが出来るでしょうが。だからこそ、実感として、有難いというものを感ずることが出来るのです。そういうおかげを頂く為にも、私は、成り行きを、いよいよ大事にさして貰わなければならないと思うですね。
   どうぞ。